『私達は本来、魂の存在であり、この地球に生まれ肉体を持つことで、様々な体験をしている』という見方があります。
「魂」は「本質、意識、源…etc」などの言葉に言い換えることもできます。
この見方に、僕は共感します。
「医者なのに、そんなこと言っていて大丈夫?」から、
「正にその通り」まで、
色々な意見があるかとは思います。
また宗教的な印象を受ける方もいるでしょう。僕は特定の宗教を信仰していませんが、信仰する自由は尊重しています。ただし、自分の信じる物だけが唯一正しいと人を説き伏せる立場にはいません。多様性を認め合うことこそが調和と感じているからです。
そういう訳で、これが絶対正しいとか、言い張る気持ちはないですし、証明もできません。
あくまで一つの見方です。
ただ石神井公園で、虫を、鳥を、花を、木をじっとみていると、ますますこの見方が腑に落ちてくるのです。
この生きものの多様性、そこに宿る魂のうごめきに、何かとても大きなものを感じます。それぞれの生きものが、自分と無関係でなく繋がっているのです。人や生きもの達に優劣はなく、それぞれがかけがえのない自分自身を生きるために、この地球をシェアしていると感じます。
医師として、魂の視点で患者さんやクライアントさんに向き合っていきたいと思い、病院を辞めました。
西洋医療がメインの現代医療を全面的に否定するわけではありません。その有用性を知っています。しかし、魂と調和の視点を見失うことで、閉鎖的で窮屈な医療になってしまい、それが患者さん、そして医療者をも、苦しめている現実があると思うのです。
魂と調和という視点から俯瞰する時、現代医療は重層的な深みを持ちながら進化するでしょう。
病は、心、身体、魂の不調和の現れと捉えることができます。見方を変えれば、病は調和に気づかせてくれるメッセージと言えます。
病として現れた結果だけを取り去るだけでなく、それを生み出した調和の乱れを調える、調律するという視点を持つことは、病の原因を根本的に治す治療に繋がるものと思います。
西洋医療で不治の病とされたものが、劇的に改善していく場合、この根本にアプローチしているスタンスにいるからではないでしょうか。それは決して奇跡的なものではなく、実は十分起こり得ることであり、視点の違いが大きな結果の違いをもたらしたものと思います。
現代医療は死を「避けるべき敗北」とみる傾向があります。
死が迫る患者さんは、敗北へ向かう、可哀そうな憐れむべき人である。
本当にそうでしょうか?僕はそうは思いません。
実はその様な厳しい状況だからこそ、魂が肉体を離れるその瞬間まで、調和の道を限りなく歩む豊かな時間となり得るのだと思います。
死は、自分への、そして関わる人々への、最後のギフトとなるのです。
奇跡的な治癒を遂げる道も、最期の時へ向かう道も、現代医療で敗北と定義されがちな病や死を超え、調和の中で魂を輝かす、かけがえのない崇高な体験という点で同じことだと思います。
大切なことは、病のあるなしではなく、残された時間の長い短いでもなく、ありのままの自分を生きることだと思うのです。
そのまなざしでクライアントさんに寄り添いながら、サロンまなはでじっくりと対話する時間を持ちたいと思っております。
どうぞ必要な方に届きますように。
大木 学